「阿部さん」

     「阿部さん」

「小樽さ行《え》ぐごとに決ったど。」 阿部と一緒に七之助がいて、健を見ると云った。「工場さ入るんだ。――伯母小樽にいるしな。……んでもな、健ちゃ、俺あれだど、百姓|嫌《えや》になったとか、ひと出世したいとか、そんな積りでねえんだからな。――阿部さんどよく話したんだども、少しな考えるどこもあるんだ……」「ん……」――健は分っていた。「村ば出れば、案外、村が分るもんだからな。」 阿部が何時もの低い、ゆるい調子で云った。――農場で何かあると、それが子供を産んだとか、死んだとか、ということから、小作調停、小作料の交渉まで、キット皆「阿部さん」を頼んだ。足を使ってもらった。――四十を一つ、二つ越していた。荒々しい動作も、大きな声も出さない、もどかしい程温しい人だった。 何時でも唇を動かさないで、もの[#「もの」に傍点]を云った。「阿部さんは隅ッこにいれば、一日中いたッて誰も気付かねべし、阿部さんも黙って坐ってるべ。」――七之助がよく笑った。 村では、四人も五人も家族を抱えて働いている四、五十位の小作人の方が、遊びたい盛りのフラフラな若い者達より、生活《くらし》のことではずッと、ずッと強い気持をもっている。――小作争議の時など、農民組合で働いている若い人は別として、何処でも一番先きに立って働くのは、その年の多い小作だった。――阿部はその一人だった。 阿部は旭川の農民組合の人達が持ってくる「組合ニュース」や「無産者新聞」を、田から上った足も洗わないで、床を低く切り下げて据付けてあるストーヴに、いざり寄って読んだ。丹念に、一枚の新聞を何日もかかって、一字一字豆粒でも拾うように読んでいた。壊れた、糸でつないだ眼鏡を、その時だけかけた。 彼が畔道を、赤くなってツバの歪んだ麦稈帽子をかぶり、心持ち腰を折って、ヒョコヒョコ歩いているのを見ると、吉本管理人ではないが、「あんな奴が楯をつくなんて!」考えられなかった。

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